アンソロジーにあんまりにもロアルカネタがないのでカッとなって書いた。後悔はしていないけど、反省は今からする。
あはは、と軽やかな笑い声が、扉の向こうから聞こえてきた。
今まさにノックしようとしていた拳がとまり、少しの間を置いてその手を下ろす。
もう一度逡巡するような間を置いて、ため息を吐き、軽く肩をすくめ、きびすを返して、すっかり暗くなってしまった廊下に戻っていった。
その背中に「もー、レイカちゃんったら」なんて、そんな明るい声が届いていた。
朝、訓練場に向かうとき、通り道にあった中庭に面した窓から、重役達が会議しているのが見えた。
クローシェが凛とした姿で答弁を繰り返し、時々こちらからは影になって見えない方向を振り向いて、小さく頷いているのが見える。
歩きながら窓を見つめる。一歩進むごとに窓から見える角度が変わり、横を向いているクローシェの姿が斜め前から見える位置まで来たところで視界が壁に阻まれて、結局、彼女が話している誰かの姿は見えなかった。
また別の日。
「すまないな、今日は非番だったんだろう」
レグリスが彫りの深い眉根を寄せて、そう言った。
いえこれも任務ですから、と応えると、呆れたように苦笑される。
「愛想をつかされる事はまずないだろうが、マメに構っておくことには越した事はない」
なんのことだろうと反射的に顔をしかめたのを見られて、苦そうな笑みがさらに深くなる。
「ただの経験談だ」
さらに別の日。
「とにかくきちんと寝ていなさい!」
怒っているのか心配されているのか分からない言葉が、テレモの向こうから投げかけられて、常より動きが鈍くなっている頭をどうにか回転させてかろうじて、はい、とだけ応える。
声の調子がよほど弱々しく聞こえたのか、テレモの向こうの相手はそれ以上追求するのをやめて「まったくもう」とこれまた怒っているのか呆れているのかわからない声で呟いた。その脇から「まあまあ落ち着いて」となだめる声が聞こえて顔を上げると、向こうから通信が切られた。
顔を上げた体勢のまま固まり、次に大きく息を吐いて、こちらのテレモも切る。
そしてだるい身体をどうにか動かして階段を上った。使われなくなって久しい寝台の脇を横切って、自分用の寝台に倒れこむ。
熱があるのか、頭が重い。邪魔な眼鏡を外して身体を転がすと、薄暗い天井がぼんやり見える。
どんなに耳を澄ましても、家の中からは自分以外の誰の気配もしない。窓が風を受けてかたかたとなる音を聞いていると、自然と目蓋が落ちてくる。
眠りに落ちる瞬間、ふと思い浮かんだその名前を口にして、そこで意識が途切れた。
ざあざあと横殴りの雨が降っている。足元はすっかり水浸しになっていて、一歩進むたびに波紋が広がる。
古都エナ。先の崩落の際に多大なる被害を受けたこの土地には、これだけの水量を受け止めるほどの力がもうないのだ。
「メタファリカのための恵みの雨が、こんなことになるとはな」
同僚の一人がそう呟くと、周囲からも同意のため息がもれた。
被害状況は、と聞くと、
「大きなところで家屋4棟全壊。先の崩落のときに空いた穴に水が流れ込んで、土台を侵食したらしい。それと一部道路が陥没。端のほうでは崩落も確認された。不幸中の幸いは人的被害は皆無なことだな。前の崩落のおかげで、地盤が緩んでいた地域ほど移住が優先されて、この辺に人は住んでいなかったんだな」
今回の任務は、人が残っている地域にも浸水が進んでいるため、彼らとその財産の救助と避難誘導。
それぞれの担当を確認して騎士たちはそれぞれに動き出す。
同僚の一人がすれ違いがてら、顔を覗き込んできた。
「お前、過労で倒れたって聞いたけど大丈夫か?」
どうにかな、と軽く肩をすくめると、無理すんなよ、と軽く肩を叩かれた。
「これが終わったら、愛しの彼女に温めてもらいな」
心配すると見せかけ茶化してきた同僚をじろりと睨むと、今度は向こうが肩をすくめて、浸水した道路の向こうに駆けていった。
しとしとと小雨が降る中、傘も差さずに歩く。もうすでに全身ずぶぬれで、今更傘を差す気にはならなかった。
エナでの任務が全て終わり、パスタリアに戻ってきた頃にはすでに時刻は深夜を回っていた。分厚い雲に月明かりもさえぎられ、家の灯も消え、街頭だけが道を照らしている。
まだ少しだけ残っていた熱がぶり返しているのか、それとも極度の疲労なのか、身体が鉛のように重い。あまり早く真っ直ぐに歩けないが、どうせ道には誰もいない。
暗い道をのろのろと歩く。
今日あったことや明日するべきことを考えようとするが、疲れた頭ではまとまらない。むしろ考え事をするたびに、頭の芯がぎちぎちと音を立ててひずんでいく。
朦朧としている思考の中、あの大地の色と若草の輝きを持った瞳だけ、妙にはっきりと思い浮かんだ。
ただいま、と誰もいない家に向かって呟いて扉を開ける。
と、胸の辺りに何かが飛び込んで、いや、勢いよくぶつかってきた。
何事か、と目を見開いて視線を降ろすと、大きなタオルを広げたルカが抱きついていた。
「クロア! ちょ、なんで傘も差してないの!?」
そういって、クロアの頭の上に白いタオルが被せられ、ぐしゃぐしゃと押し付けられる。髪を拭いていてくれているらしい。
「もう、風邪ひいたらどうするの」
がむしゃらにタオルを押し当てられるままにされながら、目を丸くする。
「昨日倒れたって聞いて、やっと時間を作って看病に来たら、任務に行ったって聞いてびっくりしたんだよ」
とにかく今は横になって、と言われて、ルカにぐいぐいと腕を引っ張られて二階に上がる。
クロアを寝台横の椅子に腰掛けさせると、濡れた鎧を脱がしたいのか、ルカは左腕の小手の付け根を触っている。やり方がわからないのかもたもたしていたので、その手を止めて自分で外した。思ったより腕に力が入らなくて、装具一式が乱暴にガシャンと床に落ちる。
「あ」
すでに集中力と握力がなくなっている様子を見て、見る見るうちにルカの眉間にシワがよる。
「クロアのほんとバカ!」
タオルを頭からかぶせられて、その上からぎゅうと抱きしめられた。
「……最近、全然顔合わせてなかったし……それで、急に倒れたって聞いて、本当に、心配したんだから」
ぷつん、と何かが切れた音がする。
ルカの頬を両手で掴んで引き寄せて、噛み付くように唇をふさいだ。驚いて体がこわばる感触があったが、それ以上の抵抗はなかった。
乱暴に、重ねるというより食いつくように進入する。向こうの応対などお構いなしに。ルカが後ろによろめいたが、即座に腰を浮かしてルカの両足の間にこちらの足を踏み込みがてら、立ち上がってより距離を詰める。
腰に回した腕に力を込めると、ぬれたグローブの感触が気に障って、投げ捨てるように外した。素手を腰に回すと、今度はルカの服の感触が気に障る。服の隙間から腕を差し入れて背中を直に抱く。
「ちょ、クロ――んっ」
冷えた手の感触に驚いたのか、それとも素肌を直に撫でられたことに驚いたのか、両方なのか、ともかく腕を突っ張って距離を取ろうとしてきたが、即座にそれ以上の力を込めて封じこむ。
勢いに押されてルカがあとずさる。と、ヒールが何かにつまずいたのか、ぐらりと大きく重心が傾いた。倒れさせまいと足に力を込めたが、突然頭の芯が一際ずきりとひずみ、刹那、視界が白に染まった。
抱きしめられていたルカごと寝台に投げ出され、ぎし、と、どしん、の間のような鈍い声でバネが悲鳴を上げる。
痛いというより苦しい。仰向けに倒れるルカの上に、重なるようにクロアが倒れていた。濡れた前髪がさらりと落ちてきて、むき出しのルカの肩を撫でる。
「ね、クロア、クロアったら――あれ?」
恥ずかしいやら重いやら苦しいやら。ともかく身体をどかしてもらおうと肩をゆすると、触れた手のひらがやけに熱い。
恐る恐る、ぬれた髪をどかして額に触れると、明らかに熱があった。息が荒いのは体調のせいか。肩をゆすっても反応がないのを見ると、どうも意識が朦朧としているらしい。
カッと頭に血が昇って、こんな調子で任務に出たの、とか、しかも雨の中を、とか、ともかくどうにかしてどうにかしないと、などと、まとまらない思考が一度に溢れて頭の中を駆け巡る。
ふと、
「ちょっと痩せた、かな」
クロアの頬を撫でると、かすかに輪郭がくぼんでいる。見ると、赤くはれぼったくなった目蓋の下にも影が落ちていた。
熱があっても、雨が降っていても、しっかりと食べる余裕がなくても、身体を満足に休めることができなくても、それでも任務とあれば他者を助けるためなら立ち上がる。
そうやって自身を削っていたとして、彼は何を糧に動くというのか。
「ルカ……」
ぼんやりとしていると、ふいに名前を呼ばれて驚いた。
起きたのだろうかと思ったが、どうやらうわ言で名前を呼んだだけらしい。そして、
「……会いたい」
と続けて、いまだ腰に回されたままの腕に、苦しいくらいにいっそう力が込められた。