来月から本気出す。
うなじの辺りがくすぐったくて、思わずぱちりと目蓋が開く。
しばらくもそもそと動いていたクロアは、やがて落ち着いたのか長く息を吐いてうつむいた。私の肩口あたりに唇を当てるようにして、身体の力を抜いてわずかによりかかってきた。
ざんばらに切られた髪がくすぐったい。
ずれていた毛布を引っ張りあげた。肩の辺りにまとわりついていた寒さから逃れて、思わずほっと息を吐き出した。一方のクロアはぴくりとも動かない。またすぐに眠ってしまったらしい。
鼻先をうずめる形になった髪からは、石鹸と汗と少しの錆びたにおいがする。
最初はよくわからなかったけれど、この旅を続けるうちにこのにおいの意味を知って、その度喉の奥がじわりと苦くなる。
クロアの頭に回した手のひらで、なんとなく頭を撫でてみる。固めの、でも真っ直ぐな髪質が触っていて気持ちいい。そのまましばらくさらさらと撫で続ける。
夜はまだ深く、透き通る空の向こうで瞬く満天の星がカーテンの隙間からのぞく。
風もない夜。全くの無音の世界。キンと冷え込む空気を前に、一度覚めた眠気が戻ってくるわけもなく、ぼんやりしながら白く染まる自分の吐息を眺めていた。
「――ルカ」
どれだけそうしていただろう。不意に聞こえたくぐもった声に、あっ、と声を上げて動かしていた手も止まる。
「ごめん……起こしちゃったかな」
「起きてた」
嘘ばっかり、と口の中だけで小さく笑う。
「ルカ」
「どしたの」
ちょっとだけ強くなった語気に、どこを見るでもなくぼんやりしていた焦点が徐々に定まっていく。首をかしげて、視線を向けても、場所が場所なのでせいぜいクロアの耳の辺りまでしか見えなかった。
私の肩に顔をうずめたまま、クロアがすうと大きく息を吸う。
「においがする」
うっ、とかなり露骨に呻いてしまった。
どんなにロマンチックな言葉とシチュエーションであっても、「においがする」なんて言われて、全ての感情を喜びに割り振れる女の子はそんなにいないと思う。
「おっ、お風呂には入ったんだけどっ。汗、かいちゃった、かなー?」
反射的に身体を引こうとすると、いつの間にか腰の辺りに置かれていたクロアの腕に阻まれた。
そのままぎゅうと抱きつかれて、脇の辺りに腕が当たる。そろりそろりと這い上がってくる感覚がむずがゆい。咄嗟に突き飛ばすことはこらえたけれど、代わりにつま先がピンと強張る。
そんなこっちの事情などお構いなしに、クロアは私の背筋に手のひらを押し当てるように更に力を込めた。
「あの草原の風」
何、と聞き返す前に、クロアは続けた。
「雨が降った後の土、開き始めたつぼみ、むせ返るようなみくりの森の空気」
「……。」
「そんなにおいがする」
いっそう力を込めて、ぎゅうと抱きしめられた。
クロアの言うそれを私は知っている。ミント区の、つまりは今は雲海に沈んでしまった――もしくは沈めてしまった――故郷のにおいだ。
どこを見てもぼろぼろで、埃っぽく、ひび割れていて、冷たくも温かくもなく、にぎやかな街に出ればどこかしら漂う人の活気と、食欲が沸いてくるような少し湿った臭いの記憶など一切ない、そんな場所。
わずかな恵みも人の手で摘み取って、残るのは枯れた硬い大地だけ。
早く出ていってしまいたかった。帰らずに済むならそっちのほうがよかった。長い線路の上を歩きながら、何度も同じことを考えて、同じ数だけため息つく。そうして何の手ごたえもない家の扉と街の門を交互にくぐる日々。
あそこにいるということは、トゲばかりが際立つ枯れた茨の海に身を沈めるのと同じことだった。
「畑があって、収穫のたびに皆が笑って、冬は寒くて、皆で火の周りに集まって、春の湿った土のにおいが待ち遠しかった」
「うん、そうだね」
言いながら、舌の根がカラカラになっていくのがわかる。
毎日が灰色で、毎日が乾いていて、毎日ヒビが深くなっていく。僅かな水も、深いヒビにすい吸い込まれていくだけで、埋めることなど程遠い。
声をかけても、そっぽを向いても、笑いかけても、怒っても、何一つ「そうね」なんていってくれず、ただただ否定し、無視するような空気が漂うだけ。
確かめるごとにヒビが深くなっていくのなら、もう確かめないでいよう。そう気付くまでに時間はかからなかった。
「春の泥が気持ちよくて、裸足で走って、増えていく草と虫の気配がうっとうしいくらいで、でも俺もどこか浮き足立ってた」
通り雨が過ぎた砂利道で転んでしまって、頭から泥をかぶってクロアは口をへの字に曲げていた。泥をはらってあげていると、ぐいっと自分で顔をぬぐってそっぽ向いた。そうだ、あれはきっとちょっとだけ泣いていたんだろう。
見るとクロアの膝がすりむけていた。昔、自分にしてもらったように泥でにじんだ傷口を、水で洗って布を当てた。
誰にしてもらっていたっけ。
クロアはまだかすかに鼻をすすっていたので、いたいのいたいのとんでけー、なんて、昔のように唱えてあげた。
昔っていつだっけ。
ばつが悪そうな表情でクロアは先に立ち上がり、しゃがみこんでいた私に手を差し出してくれた。突き出すような仕草に苦笑しながら、その手を取って立ち上がった。
そうやって歩いた道は雨で緑が色濃くなり、澄みわたる青空の向こう、もくもくと真っ白な入道雲がそびえ立つ。雲に向かって指さして、掛け声と一緒に手を繋いだまま二人で駆け出した。
この手を繋いでいる間は、世界に色彩が戻っていた。繋いだ手は確かに温かく、ぎゅっと握り返せば、同じかそれ以上に握り返してくれる。その時だけは、なんの欠落も虚無も感じなかった。
かつて、全てがそうだった頃のように。
「水たまりに映った空がきれいで、ぬれた空気は涼しくて、ルカは笑ってた」
そうだったかな、とこぼした唇が震えている。頬の辺りに、何かが伝っていくのを感じた。
「そうだった」
覚えてる、と続けた言葉は枕の中に沈む。
そうだね覚えてる。もうどこにも残っていない故郷は、確かに今、まぶたの裏にある。瞬きするたび目の前に浮かび上がり、そうして涙があふれ出す。
耳のすぐそばからすうすうと規則正しい呼吸音。背中に回された腕は少し緩んで、代わりに自分が抱き返した。
鼻先をうずめた髪からは、石鹸と汗と少しの錆びたにおいがする。
最初は埃っぽいなと顔をしかめたりもした。けれど旅を続けるうちにこのにおいが意味することを知って、なんだか無性に悲しくなった。
無防備に寝息を立てるクロアの、むき出しのうなじから背中にかけて、白く、引きつれたような跡がいくつも見て取れる。この数だけいやそれ以上に、会わなかった空白の期間に、その身に浴びた刃と熱と、浴びせ返した刃と熱がある。
ぎゅうと背中に回した腕に力を込める。
寝ぼけながら抱きしめてくれたさっきのクロアの腕より、もっとずっと強く強く。強いと思ってもらえるようにと、力を込めた。
どうか、あの日差し出してくれた手のひらの温かさと同じでありますように、と祈りながら目をつむる。
夢を見た。
いつだって鉄のにおいが混じるこの大地でも、その間だけは風の中の土のにおいが濃くなる時期がある。
背の高い草がおおう丘の向こう、浅いぬかるみに足を取られながらそれでも駆け出さずにはいられなかった。ようやくのぼった小高い丘の上から振り返ると、淡い緑と濃い茶色のじゅうたん、その隙間にぽつりぽつりと家の屋根が遠くに見えた。
人は家々から鍬を持ち出し、柔らかい土を耕して、半年後には黄金色に輝くことを願って小さな種をまく。そんな農夫の顔には、世間と冬の厳しさに眉根を寄せる気難しさなど微塵もなく、ただ真剣にそして誠実な瞳で大地を見つめていた。
待って、と高い声が草の間から飛んでくる。振り返ると草を掻き分けて顔を出した少女がいた。肩で息をしながらようやく追いついた彼女の顔を、どこかで転んでしまったのか柔らかな線を描く頬に泥がついていた。服の袖でぬぐってやると、
「ありがと、クロア」
ぬぐっていた手に自分の手のひらを添えて、えへへ、と照れ笑いを浮かべる少女がいた。
この表情を失くしたくないと、自然と、でも強く、胸の内で決意した。
夢から覚めた。
カーテンの隙間から差し込む眩しい光に、思わずぱちりと目蓋が開く。
しかしすぐに目蓋が下りてきた。少しずつ眠気に抗いながらゆっくりと、速度を上げつつ瞬きを繰り返すうちに意識がはっきりしてくる。
布団についたときにはつま先が痛いくらいに冷えていたが、僅かに湿り気を感じる朝の空気は冬の寒さが緩む前兆だ。
身体を起こすと、自分の背中にルカの腕が回っていた。そっとそれを解くと、おもわずブルリと肩を震わせる。湿り気は帯びていても、空気はいまだ冷たいらしい。
一方で掴んだルカの手は驚くほど熱を帯びて温かい。握った手に力を込めると、眠っているはずなのに確かに握り返してくれる。
完全に目が覚めたところで、昨夜は何か懐かしい夢を見ていた気がしたが、まぶたの裏にはもう残っていないことに気付く。
少し赤くなっている頬に触れてみる。どこかで見覚えのあるようなふにゃりとした表情で微笑む少女に、胸の内が重みのある温かさで満たされていくのがわかる。
ルカ、と少女の名前を読んで、ぴくりと反応した目蓋にキスを落す。彼女の頬にかかる髪が自分の鼻先に触れる。
えもいわれぬ、春の始まりのにおいがした。